会社沿革

荻野酒店創業~成熟期 昭和33年(1958年)

初代 荻野公二 が第二次世界大戦から還ってきたのち、兵庫県春日町中山で豆腐屋から始め、酒類販売、たばこ販売と取扱い品目を増やしていき、荻野酒店が誕生しました。
当時、町で店屋が3店舗ほどしかなかったことや高度経済成長の波のおかげもあり商売は順調に成長していきました。

現店主誕生 昭和51年(1976年)

郵便局に勤める公二の息子、典範(みちのり)のもとに一人目の男の子ができました。現店主となる私(幸一朗)でした。当時の小学校は1学年が40人近い学級ばかりで、現在の総児童数100人の小学校の事を思うと当時の活況ぶりがうかがいしれます。

荻野酒店 成熟~衰退期 平成5年(1993年) 

大規模小売店舗立地法や小売店免許制度の規制緩和がすすみ、当方の町にも大型スーパーやディスカウントスーパーができるようになりました。

小規模小売店は専門店化や廃業の選択を迫られるようになり、家族経営の荻野酒店はまさに渦中の存在となりました。この時、祖父はすでになくなっており、祖母澄子が事業の中心を担い、母悦子がそれを支えるという形でした。長男 幸一朗、長女 祐子 はそれぞれ違う道を歩んでおり、酒屋は郵便局に勤める父(典範)が定年後にのんびりやるという考えでいました。

父の他界 平成8年(1996年) 

定年後にのんびりやるといっていた父が心臓の病いで突然に亡くなってしまいます。女性ばかりの所帯になってしまった荻野酒店は長男の幸一朗に事業の継続か廃業かの判断をゆだねることになりました。
中学校からの夢の職業である土木工事の施工管理をしていた私は、名古屋にいるか、家業を継ぐかの判断を迫られます。現在の妻である同窓の同級生の彼女との真剣な交際をしていた私は名古屋でも現場を往復する暮らしと彼女や家業のある暮らしを天秤にかけ田舎に帰る決断をしました。

第二創業 平成13年(2001年)

田舎に帰り酒屋を手伝っていた私は商売経験もないなかで事業の将来の事を考え、当時全国的に出店が加速していたコンビニエンスストア(ヤマザキショップ)に目を付け、酒屋からの業態転換に挑みました。新店舗オープンと同時に結婚、忙しくも楽しい毎日がはじまります。

第二創業事業の成長~成熟 平成20年(2008年) 

業態転換は成功。スタッフは増え、お客様も増え、売上も収益も倍増しましたが、反面スタッフに楽しくはたらいてもらうこと、求める賃金にこたえられること、そんな職場環境を作ることなど、やるべき仕事や答えるべき課題も一挙に増え、組織の長としての能力のなさを自分自身に感じ始め、経営の勉強や勉強会に参加することなどを積極的に行うようになりました。(草莽塾塾長就任、中小企業家同友会入会など)


多店舗化の推進 平成27年(2015年) 

周囲の環境の影響に影響を受けやすい路面店よりも決まったお客様に定期的にご利用いただける施設内店での実績をもとに、柏原病院店、多可赤十字病院店、宝殿駅前店、姫路中央病院店を開業しました。

多店舗展開からの方向転換 平成30年(2019年)ごろ

宝殿駅前店、朝来医療センター店など新店が軌道にのらずあいつぎ閉店。宝殿駅前店は駅周辺の大型病院が移転するなどの周辺環境の変化とクルーとのコミュニケーション不足から業績改善に長引き撤退の判断となりました。
朝来医療センター店は開店当初から家主との関係が悪く、交渉を続けてきましたが歩み寄りができず契約途中での解約となりました。

お店は仕事場から志事場 ものを買う場所から交流をする場所へ 令和5年ころ

月初め、株式会社となったおぎのグループの営業本部に各地からいろいろな報告が入る、メールやライン、SNS、電話やFAXそれぞれの担当者がそれぞれの得意な方法で情報共有を行う。

インフォメーションテクノロジーはもはや使うものを選ぶのではなく、使う人の状態や環境に応じて使う側がアレンジできるほど、言語のように日常化した。
確定申告や酒税報告など行政に対する義務事項もそれ自身に手をかけることはほとんどなくなり、精算ボタンを押せばほぼオートメーションで報告書ができあがる。もはや、計算業務をするための専門家は必要なくなり、すべての人が同僚や家族やお客様という会社や自分にとって大切な人へ接することにその力のすべてをそそぐことのできる環境がととのってきました。

社会には個人事業者が増え、専業、兼業、副業とらわれず、自分の時間を利用してやりたいことをやって生きる人、時間にとらわれず、自分のやりたいことをやって生きることが幸せという考えが認められる時代になってきました。

仕事を食べるための手段としてではなく、自己実現や自己表現のツールや場として考えられる素地ができ、またそうしたい人たちの集団となりつつある(株)SOTENのクルーの目には、コンピューターやAIに自分の仕事をとられてしまう恐怖ではなく、誰かのために貢献できることに自信とやりがいを感じキラキラと光り輝く希望が満ち溢れている。

地域活性の一助として、趣味の一環で取り組んでいたコミュニティビジネス事業もSDG’sの考えもあり進展してきている。

 空き家、過疎、高齢化、少子化。すべての地域課題はもはや当社にとっての課題ではなく、地域活性化とお客様やクルーに新たな喜びを生み出すカギとなり、新しい世界をみせようとしている。

地域の空き農地や山林を取得し、第一次、第二次産業をはじめ、第六次産業へ参入。

地域の農業・商業団体との連携から既存店舗の販路を生かした地場産品の販売や地元産材を生かした商品開発に取り組み、独自商品の開発で収益力と自社のブランド力強化に成功。事業規模は5年前の5倍となり、第三次の成長戦略がいよいよ本格化してきた。